映画版『ハリー・ポッター』シリーズレヴュー
ハリー・ポッターはイエス・キリストである。予言の子として生まれ、父なる神のダンブルドアから命を受け、旧きユダヤ教を率いるヴォルデモート卿を打ち倒す。セブルス・スネイプは定められた裏切りによってユダとして死す。蛇を負うものが勝つことはない。
宿命により、ハリー自身も命を落とすことになるが、神に託された宝物により復活する。『ハリーポッター』シリーズは子供向けに改変された新約聖書である。
本邦では魔法使いものの金字塔とされている作品だが、魔法/オカルト要素は舞台装置としてしか存在しない。魔法はヒトの領域を出ることはなく、杖は最終的に、弾丸不要の銃と化す。ゆえに、テクノロジーと読み替えたところで、大した差し支えはないのだ。
物語において決定的にハリーの身を救うのは、透明マント・蘇りの石・ニワトコの杖という3つのアイテムであるが、これらは太古に死神から与えられた宝物であることが判明する。つまり、最も力を持つのは、魔法ではなく神秘なのである。
この作品がオカルト的であり、魔法や魔女を肯定的に描いているとして難色を示す団体もある。しかし、その前提が的外れだ。愛や善悪などキリスト教のエッセンスを含む、という反駁もセンスがない。
『ハリー・ポッター』は魔法というテクノロジーが進歩/増長する世界において、神の力によって平和をもたらす、若きイエスの物語である。ローリングが描いたのは、トールキン世界を間借りした新約聖書の二次創作だ。信者でなければ描けぬであろう。その行為が冒涜的であるかどうかは、また別の判断として。
こうして整理してみると、むしろ、この作品によって貶められたのは魔法使い/魔女であり、魔法であり、オカルトである。宗教的想像力の檻に閉じ込められ、神を超えざる力とされた魔法を哀れに思う。
シリーズの最終盤、死したダンブルドアの魂が、原作にはない台詞をハリーに語りかける。
「言葉とは、言わせてもらうならば、尽きることのない魔法の源じゃ」
この台詞にこそ、この作品における魔法の限界が示されている。すべては言語と、理性と、信仰の光に照らされて、魔法使いはどこにもいない。
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竹中正治.”ハリーに揺れる米キリスト教原理主義 ハリー・ポッターへの反発が映す米国政治の構図”.日経ビジネス.2007-7-18,https://business.nikkei.com/article/topics/20070717/129960/,(参照 2025-07-24).
雑賀信行.”『ハリー・ポッター』はクリスチャンにとって善か悪か”.christianpress.2022-04-24,https://christianpress.jp/harry-potter-good-or-evil/,(参照2025-07-24)
岡田理香.2015.「Harry Potterと対抗する人々─ 黒魔術か善人か ─」『工学院大学 研究論叢』第53-⑴: p.69-80,https://opac2015.lib.kogakuin.ac.jp/webopac/06_okada._?key=QFDKOZ,(参照 2025-07-24).