結局のところ、真面目に膝を突き合わせて対話したところで、人間と人間の関係は良くはならない。「なかよし」を生むのはその類の「おはなし」ではない。もっと猥雑で、他愛もない「おはなし」である。
「あなたは◯◯であるから、◯◯を気をつけてください。わたしは今後◯◯を気をつけます」の不毛さ。やりとりが生じる時点で、少なくともそのトピックにおいて、関係は破綻している。
リストアップされた問題点とその対策には、場を丸く収める効果しかない。全てが上滑りするビジネスの場なら、あるいは効果的なのかもしれないが。小学生の「ごめんね」「いいよ」の世界である。小学生にすらそんな世界には無いのにも関わらず。
人間関係においては、問題を問題にしないことが唯一の解決策である。目を逸らすわけではないが、直視をしない。焦点を合わせない。それを関係者全員でやる。別に、血みどろの権利闘争をする必要はないのだから。インターネットにかじりつく人間の大半はこれができない。労働による強制的な思考停止ができなければ、なおさら悲惨に陥りがちである。
人生に一発逆転はない。同じく、人生のあらゆる問題に明確な解はない。「これが解だ」と思い込むことはできる。しかし思い込みに過ぎない。悲劇にしろ喜劇にしろ、苦しみは死ぬまで続く。ならば、楽しく苦しまねば損である。
「なかよし」からすり抜ける者に対してできることは、祈りのみである。祈りに言葉は不要であるので、その点で『タコピー』は良くない。黙して祈るしかない。
「この人にも事情があって……」のカードがあれば他者を赦せる、という発想はお花畑がすぎる。事情がなくても赦さねばならない。身内を殺した人間であっても。自分をいじめた人間であっても。そういう筋を通せない人間は弱い。「やさしい世界」幻想は、箱庭でお人形遊びに興じる病人のうわごとである。
「でも」も「だって」も、「わたしはこんなに辛い」も「今まで酷い目にあってきた」も、すべて許されない場所にゆかねばならない。飽きるだけ自分語りをして、し尽くしたら、それらを虚妄とし、次にゆかねばならない。陰謀論的な自分語りにも意味がある。虚妄とするために、まずは虚妄を語るべきである。
いま、自分の書く虚妄が分かっている。それでも、書いて、読み返して、また書くことに意味がある。
おそらく、そうしてはじめて、祈ることができる。